陸上の男子100mで日本新記録を出し、日本最速の男となった山縣(やまがた)亮太選手は、東京オリンピックの日本選手団の主将にも起用されるかもしれません!!
今回は山縣亮太の中学での記録は?日本記録を出すまでの経歴や成績をまとめみた!と題し、2016年のリオオリンピック男子400メートルリレーの銀メダリストでもある山縣亮太選手のこれまでの記録や経歴を調査していきます。
山縣亮太選手は、2021年6月6日に行われた布勢スプリント男子100mで日本新記録となる9秒95をたたき出しました。
短距離選手のピークは一般的に20代前半だと思いますので、30歳手前で日本新記録を出した山縣亮太選手は大変興味深い選手です。
それでは、山縣亮太選手の経歴を調べて行きましょう。
山縣亮太の中学での記録やそれまでの経歴は?
【TOKYO2020+1カウントダウン】山県亮太を9秒台へ導いた高野コーチの“共感指導” https://t.co/IHgSeZYV2F
— 陸上マニア (@rikujou_mania) June 23, 2021
布勢スプリント男子100mで日本新記録となる9秒95を叩き出した山縣亮太選手が、9秒台を意識し始めたのは中学生の時でした。
「9秒台を意識し出したのは中学生の頃。長かった」と語った山縣選手は、10日に29歳の誕生日。「(新記録は)自分への誕生日プレゼントもそうだが、父の人母の日に何もしてあげられていなかったので、両親にいいプレゼントになった」と。親孝行な一面をのぞかせ「家族は自分の調子がいい時も悪い時も、一番力になって支えてくれた存在なので感謝の気持ちでいっぱい」と述べました。
(中略)
更なる記録更新に向け、「スタートから中間の加速に乗る前半が課題。より精度を上げていかなければいけない」と進化に意欲をみせた山縣選手。
引用:https://www.news24.jp/
現在、山縣亮太選手は29歳ですので9秒台を意識しはじめて、実際に9秒台という記録を出すまでに15年近くかかりました。
陸上短距離のピークは20代前半だと思いますので、三十代を目前に控えた選手が自身の記録を伸ばすという事はとてもすごい事だと思います。
更に、まだまだ記録を更新させようという意欲が衰えない事は素晴らしいですし、他の選手たちも触発される事でしょう。
2017年に桐生祥秀選手が最初に9秒台の新記録を出し、2019年にサニブラウン選手も9秒台を出し、2021年は山縣亮太選手がそれらの記録を上回る新記録を打ち出しました。
日本人が100mで10秒の壁を破り、オリンピックでメダルを狙える日が来るなんて夢のようですよね。
山縣亮太の出身中学は?
山縣亮太選手の出身中学校は、広島市にある修道中学校です。
浅野家の20代当主にあたる浅野吉長によって1725年に設置された広島藩・藩校「講学所」を起源とする伝統校です。
現在は、修道中学校・修道高等学校と中高一貫校となっています。
政界や財界などで活躍する卒業生を多く輩出している事でも有名ですが、運動系の班活動(部活動)も活発で山縣亮太選手ら6名のオリンピックメダリスト、8名のオリンピック日本代表選手を輩出しています。
とはいえ、山縣亮太選手が通っていた修道中学、修道高校は広島県下でも有数の進学校です。
東大や京大を目指す人も多く、山縣亮太選手も文系のトップクラスに籍を置きAO入試を経て慶応大学に進学しています。
スポーツ一筋ではなく、班活動にも勉学にも全力投球!努力を惜しまずに勝ち取ったという事でしょう。
修道中学校、高等学校の建学の精神である「道を修めた有為な人材の育成」に倣った生徒だったと言えます。
山縣亮太の中学までの経歴をご紹介!
山縣亮太選手が陸上を本格的に始めるきっかけになったのは、小学4年生の時に地元のスポーツ交歓大会に出場したのがきっかけでした。
二つ上のお兄さんが、前年の同大会で7位に入賞し、賞状をもらってきたことをうらやましく思ったそうです。
大会に出場した山縣亮太選手の走る姿を見た『広島ジュニアオリンピアクラブ』の指導者の目に留まり、スカウトされます。
この頃の山縣亮太選手は野球少年で、将来の夢は一億円プレイヤーになる事でした。
スカウトされたものの、しばらくは野球との掛け持ちで陸上一本の子に比べて練習量も少なく、本気で陸上をやっている子たちからは、皮肉られた事もあったようです。
しかし、100mの競走で、スパイクをはいたクラブの子にランニングシューズで勝ち、「走ることは自分の天職だ」と思い始めるようになります。
それからは、陸上一本に絞ったみたいですね。
『広島ジュニアオリンピアクラブ』に通い始めた翌年の全国大会では8位に入賞し、中学時代には100mと400メートルリレーで全日中にも出場しました。
中学時代の山縣亮太選手は端から見たらちょっとヤバい子ですね。
速さを追求する為に、夜な夜な走行中の車と競争していたみたいです。
ちょっと楽しそうですけど、勝手に競争されてるドライバーは気づいたら怖いですよねw
人通りの少なくなる深夜、家を抜け出すと歩道に立つ。リレーでバトンをもらうような 中腰の姿勢で、後ろから車が来るのを待つ。ヘッドライトが見えて、それが近づいてきたところでスタート。30mほどダッシュする。インターバルを取って、また次の車が来たら走る。これを繰り返す。
「運転手には『何だ、こいつ』と思われていると思いますけど。車に勝てたら格好いいじゃんって。夜中の2時、3時とか、人のいない時間に、楽しいですよね」
引用:https://bunshun.jp/
山縣亮太選手は、中学生の頃にはすでに自分の速さを貪欲に追及していたのですね。
山縣亮太の日本記録を出すまでの経歴や成績は?
素敵な映像を作って頂いてありがとうございます。今シーズンはふるいませんでしたが、すべての経験を糧に、来シーズンがんばります! https://t.co/XQdiK9gfee
— 山縣 亮太 (@V7Jqq) October 29, 2019
山縣亮太の日本記録を出すまでの経歴や成績は?という事で調べてみましたが、山縣亮太選手は高校時代から度々ケガなどに悩まされていました。
中学時代から9秒台を意識し速さを追求してきたものの、思うように結果が出せず苦しんだ時期もありました。
特に年下のライバル桐生祥秀選手に、長年の目標だった9秒台を先に出された際には物凄くショックだったそうです。
長い間、腰を痛める事を繰り返してきた山縣亮太選手は戦線から離脱し、腰を完治させることを決めます。
しかし、休養中も他の選手の活躍を目の当たりにすると自信を喪失する日々だったそうです。
腰の痛みは軽度の椎間板ヘルニアだと思われたものの、原因はそれだけではなく深部の筋肉疲労によるものではないかと診断されます。
鍼灸師の治療を受けながら、負担がかからない水泳などで体を動かしバランスよく筋肉を鍛えるためのウエイトトレーニングも行っていたようです。
2016年のリオオリンピック出場に向け、我慢の時期でした。
完全復活を遂げた山縣亮太選手は、リオオリンピックに出場し決勝進出を逃したものの準決勝では自己ベストを更新する10秒05をマークします。
男子4×100mリレーにも出場し、日本チームの第一走を走りチームは銀メダルを獲得しました。
その後も、右太もも裏の肉離れによって大会を欠場したり、2019年には気胸によって再び戦線離脱する事になるなどトラブルも沢山ありました。
それでも仲間に支えられながらトレーニングを続け、ついに2021年の布勢スプリント2021男子100m決勝で9秒95という日本新記録を打ち出したのでした。
山縣亮太の高校時代は?
引用:http://www.shot-web.com/
修道高校次第も山縣亮太選手は活躍しています。
一年生の時には、大分国体少年B100mで優勝を果たしました。
二年生の時には、2009年世界ユース陸上競技選手権大会に出場しています。
世界ユース陸上競技選手権大会では予選を順調に勝ち進み、決勝では10秒80で4位に入賞しました。
また同大会の少年メドレーリレーに出場し、山縣亮太選手は日本チームの二走目を走りましたがチームは銅メダルと獲得しています。
これらの活躍によって山縣亮太選手は、慶應義塾大学にAO入試を経て進学しています。
山縣亮太の大学時代は?
引用:https://bunshun.jp/
慶応義塾大学に進んだ山縣亮太選手は、大学でも数々の成績を残します。
一年生の時には、山口国体男子100mにおいて10秒23という記録を打ち出し、3位入賞を果たしました。
二年生の時の織田記念陸上男子100m予選でロンドン五輪A標準記録を突破し、ロンドンオリンピックにも出場します。
準決勝まで進みますが、世界の壁は厚く決勝進出とはなりませんでした。
しかし、男子4×100mリレーの日本チームとして出場し、4位入賞を果たしています。
大学3~4年生の時には、日本選手権では初優勝を果たしたり、ユニバーシアードでは100m、4×100mリレー共に2位という成績を残すなど輝いた時代でした。
一方で、肉離れや腰痛が重なるなど、ケガに悩まされた時期でもあります。
山縣亮太の社会人時代は?
【🎉TEAM SEIKO 始動🎉】
この度、#Seiko 所属アスリートは、坂井聖人選手・棟朝銀河選手が加わり、陸上の山縣亮太選手、福島千里選手の合わせて4名になりました㊗️!
ここに、「TEAM SEIKO」を結成します🎉!特別サイトもオープンしたので是非ご覧ください👀!https://t.co/QZapz4pjM2 pic.twitter.com/gwtPuXDp6h
— セイコースポーツ (@sports_seiko) April 2, 2018
山縣亮太選手は、大学卒業後、当時陸上部のなかったセイコーホールディングスに入社します。
SEIKOはアスリート支援に乗り出したばかりで、山縣亮太選手は、その第一号のアスリートという形での入社となりました。
SEIKOといえば、これまで様々な競技に使用する計測器の制作も行ってきた企業です。
山縣亮太選手が入社した当初はたった一人の所属アスリートでしたが、2018年には陸上の福島千里選手、トランポリンの棟朝銀河選手、競泳の坂井聖人選手が加わったTEAM SEIKOが結成されました。
現在は、セイコーがサポートするアスリートが他に三名います。
陸上部がなかったSEIKOに入社した山縣亮太選手を心配して、マネージメント業務を行うことなったのが慶大競走部で同期の瀬田川歩さんです。
「4月からちゃんと競技できる環境なのかなって。セイコーは大会のエントリーとかノウハウがなかったし、山縣クラスの選手だと主催者側から大会の斡旋もある。マネジャーとまでは言わなくても、そういう担当は必要だろうと思っていました。何も分からない人が担当に付いたら大丈夫なのかなって」
瀬田川は慶応高校から慶大に進み、競走部で主務を務めていた。いわゆるマネジャーだ。選手としては走らないが、山縣に関することも含め部の運営全般を仕切っていた。
山縣は理知的にしゃべるので、しっかり者のように見えるが、集中力が高いため、陸上のことに思いを巡らせ始めると周りに目が行かなくなるタイプである。代表入りしてすぐの頃は、集合時間に遅れて先輩を待たせることがしばしばあったし、練習中も考えごとをしながらメンバーから離れて1人で歩いていってしまうこともある。
そういう素顔を知っているだけに瀬田川は心配だった。自身は大手損害保険会社に内定しており、卒業後の4月からは別々の道を歩むことになっていた。
引用:https://bunshun.jp/articles/-/45988
SEIKOサイドとの話し合いの結果、瀬田川歩さんはスケジュール管理をしたり、週末の試合に同行するなど山縣亮太さんのマネージャーをしています。
山縣亮太選手は、SEIKOに入社した2015年は腰痛が悪化し世界選手権出場を逃すなど調子はいまいちでした。
翌2016年は、絶好調で数々の大会で好成績を残し、リオオリンピックの日本代表選手に選ばれます。
その後の山縣亮太選手の活躍は、山縣亮太の日本記録を出すまでの経歴や成績は?を参照してください。
現在もTEAM SEIKOに牽引し、挑戦し続けています。
山縣亮太の経歴や成績をまとめ
先日、男子100m (9秒95)で日本記録を更新した 山縣亮太選手 @V7Jqq⚡️
2年のブランクの中で自分の走りを追求し続けた彼は、さらに進化した走りで快進撃を続ける。
ケガを経て彼が見つけた新しい理想像とは?🏃♂️👇
— Nike Japan (@nikejapan) June 14, 2021
山縣亮太の中学での記録は?日本記録を出すまでの経歴や成績をまとめみた!という事で、陸上100m男子記録保持者の山縣亮太さんの経歴について色々と調べてきましたが、いかがでしたでしょうか?
山縣亮太選手が9秒台を意識したのが中学生の頃で、速さを競った相手が走行中の車というのがとても印象深かったですね。
東京オリンピックでもケガする事なく全力で頑張ってほしいです。